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東京地方裁判所 昭和33年(レ)451号 判決

控訴人 渡辺光一

被控訴人 池田京一

主文

原判決を取り消す。

被控訴人は、控訴人に対し、別紙目録記載の建物を、昭和三四年一一月一日限り、金二〇万円の支払と引換に、かつ控訴人が被控訴人に対し未払家賃および同日までの損害金の支払を免除することを条件として、明け渡せ。

訴訟費用は、第一審において生じたものは控訴人の負担とし、第二審において生じたものは被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、主文仝旨の判決並びに仮執行の宣言を求め、被控訴人は、「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」

旨の判決を求めた。

当審において、控訴代理人は、「控訴人は、被控訴人に対し本件建物の明渡を求める正当事由の補強条件として、移転料二〇万円を提供し、明渡猶予期間を控訴審第一回口頭弁論期日(昭和三三年一〇月一八日)以後一年以上である昭和三四年一一月一日までとするほか、同日までの未払家賃および家賃相当額の損害金の支払を免除する。右の条件をもつてすれば、被控訴人において転居先を求め得べく、控訴人の現況をもつてこのような出捐をしてもなおかつ明渡を得られないとすれば、控訴人の所有権は無に等しく、その財産権を否認せられたことになる。」と述べ

被控訴人は、「本件建物賃貸借には期間の定めのないこと、控訴人が昭和二九年二月一一日に本件建物を買い受けて賃貸人たる地位を承継したことは、争わない。被控訴人の現況は、被控訴人夫婦は、老令で無職、長男(三五才)は、昭和二九年一〇月頃から強度の神経衰弱症で当分回復の見込なく無職、次男は早くに別居、三男が月収一万一千円を得、これをもつて一家四人がその日を送つている。三男は二七才で病人を抱えての家事の切り廻わしには一日も早く嫁を必要とし、嫁にも内職して貰つて一家の生計を維持する必要があり、かかる状況となつた場合、寝室が三室必要である。今仮りに本件建物を明け渡す場合には、移転先きは、少くとも、三室ある建物を借りねばならず、敷金、権利金等多額の資金を要するのみならず、本件建物については家賃が統制賃料(八〇〇円)であるため前記収入をもつて辛じて生計を樹てているのが、たちまちにしてその何倍かの統制外の家賃を支払わねばならぬこととなるべく、被控訴人一家の生計は忽ちにして破壊され、一家四人は餓死線上を彷遑するに至る。それ故、控訴人の提供する条件程度では、被控訴人の現況に対し本件建物の明渡を求める正当事由としてはとうてい不十分であつて、移転に必要な敷金、権利金、運搬賃等一切の費用のほか、少くとも向う五年間の移転先の家賃を負担してもらえば、控訴人の立場にも諒承できるものがあるので、やむなき仕儀として明渡して差支えない。」と述べ、

原告訴訟代理人は、当審における控訴人本人尋問の結果を援用し、当裁判所は、職権で被控訴本人を尋問した。

以上のほか、当事者双方の事実上、法律上の陳述、証拠の提出、援用、認否は、すべて原判決事実欄の記載と同一であるから、ここにこれを引用する。

理由

別紙目録記載の建物は、控訴人が昭和二九年二月一一日売買によつて前所有者からその所有権を取得したものである、被控訴人が従前から期間の定めなく賃借居住していたので、控訴人は前所有者から賃貸人たる地位を承継したこと、控訴人が、昭和三二年一〇月一七日付内容証明郵便をもつて被控訴人に対し賃貸借解約を申し入れ、右意思表示が同月一八日被控訴人に到達したことは当事者間に争がない。

そこで、右解約の正当事由の存否について判断する。

成立に争のない乙第一、第五号証、原審および当審における控訴人および被控訴人各本人尋問の結果に弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。

先ず、控訴人側の事情として、控訴人は、訴外新武蔵製鋼株式会社に機械工として働き、給料手取月二万二千円位で、妻と高校生の長男を頭に四人の子供を扶養して会社社宅一軒(四畳半一間と六畳二間、建坪一五坪五合)に居住しているが、会社が弱体であり、事業不振で、親会社の企業合理化の進展如何によつてはいつ閉鎖になるかもはかられない危険に脅かされていて、一家の将来の生活に不安の影が濃いため、退職して店舗を入手し、独立してオートバイの修理、部品販売業を始めることを考え、たまたま仲介者から本件建物を教えられ、店舗として営業に適するのと、売買代金が比較的安かつた(成立に争のない乙第一号証のうち、調停申立書附属の権利書写によると、代金は一〇万九、二〇〇円であることが認められる。)のに加えて、仲介者が居住者は簡単に立ち退かせることができるようにいつたので、そのつもりで買い取り、昭和三〇年三月頃立退料一〇万円で明渡の交渉を始め、なお同年九月墨田簡易裁判所に対し明渡の調停を申し立てたが不調に終つた。控訴人は、会社に勤務している限り前記社宅に居住を続けることができる状況にあるが、将来の不安に駆られて独立して事業を営むことを熱望し、本件建物買受後は営々として貯蓄に努め約二〇万円を貯蓄しておるが、これを被控訴人の移転費用として全額提供する意思を有し、明渡を得た暁の営業資金については、親戚からの融資を得てこれを調達し、一日も早く不安な勤人の身から脱し、独立して仕事をはじめたい考えでいる。

次に、被控訴人側の事情として、被控訴人は、もとラジオ商を営んでいたがその後無職となり、当年七二才、身体の不自由な老妻と昭和二九年秋から強度の神経衰弱に陥つて失職し、当分は回復の見込の立たない長男と三男の四人暮らしで、三男は、二七才で旋盤熔接工として勤め、その月収約一万一千円で一家を扶養している。被控訴人は、長男の発病によつて少い貯蓄を費い果たし三男の収入が被控訴人家の唯一の収入で、貧窮の生活に苦しんでいる。本件建物は、家賃が統制価額で月八〇〇円、六畳二間と三畳一間あるので、病人に一室を当てがつてせめてもの療養に用いることができ、一家の生活は、この低家賃と間取りとによつて辛うじて支えられている。なお、二男は、早くから別居して、浅草方面で洋服屋の店員として働いているが、妻帯して子供もあり、自己の生活を守るに精一杯で、被控訴人を扶養するに足る力に乏しい。

本件に顕れた限りの証拠中、以上の認定を左右する証拠はない。

以上の認定事実に立脚して考えると、もし控訴人が被控訴人に対して無条件かつ即時の明渡を請求するものとすれば、それは、被控訴人の生活を破壊するものというべきであつて、控訴人の自己使用の必要性の緊迫度になお余裕のあるのと照らし合わせて、とうてい解約の申入につき正当事由あるものということはできないだろう。しかしながら、控訴人はこのような請求をするのではなくして、その主張のような条件を提供して明渡を請求するものである。

すなわち、控訴人は、明渡を控訴審第一回口頭弁論期日以後一年以上である昭和三四年一一月一日まで猶予し、同日までの未払家賃および家賃相当額の損害金の支払を免除し、ほかに移転料二〇万円を提供する、という。

思うに、建物賃貸人がその賃貸借を解約し明渡を求めるにつきこのような明渡期間の猶予、家賃等の免除、金員の提供の条件を負担する旨を表明する場合には、その解約の正当事由の存否を判断するに当つて、これを諸般の事情の一つとして総合判断資料に加えることをゆるさぬ理由はなく、当然にゆるさなくてはならないものと考える。蓋し、借家法第一条の二の正当事由の存否は、諸般の事情を考慮して社会通念によつてこれを決すべきものであるが、明渡期間の猶予、家賃の免除、移転料の提供というような諸条件が揃えば、借家人は安んじて他に新しい住居を求めることができ、しかも住居の移転による負担が軽減され、住居の喪失による生活の混乱をふせぐことができるのであるから、借家法が正当の事由がなければ解約をゆるさないとした法意がこれによつて達せられることになるからである。この意味において、明渡期間の猶予や、家賃の免除や、移転料の供与などは賃貸人の側における正当事由を補強し、補完する要素ないしは条件とみることができる。そして、これらの諸条件がいかなる程度に提供された場合に右のいわゆる補完条件が充足されたとみるべきかは、建物使用の必要度を中心として、当事者双方について存する具体的な事情を考慮してこれを決する外はない。

これを本件についてみると、控訴人は勤務先の会社の社宅に居住していて一応安定した生活をしているのであるから、本件建物を自から使用する必要性の度合は被控訴人のそれに比して著しく弱いものであるとはいわねばならない。しかし、一方、勤務先の会社の先行きに不安があつて、失職の危険にもさらされているので、将来の生活の安定を求めて本件建物を使用し、身についた技術を活かして、独立してオートバイの修理業を営むことを計画しているのである。当裁判所は、こうした控訴人の生活図計に対しては十分これを尊重する必要があると考える。そして、被控訴人の側においても、控訴人の提供している諸条件、すなわち、昭和三四年一一月一日までの明渡期間の猶予と家賃等の免除及び金二〇万円の移転料の支払をうけることができれば、かなり住宅事情の緩和してきている現在では、さしたる困難なしに一家を収容するに足る新しい住居を入手することができるだろう。しかも、被控訴人一家は本件家屋を単なる住居として使用し、別にここで営業をしているわけではないのだから、他に住居さへあれば本件家屋を立去ることに痛痒を感じない立場にあるといえるし、控訴人の提供条件をうけ入れることによつて、大体において三年近くの家賃の負担を免れ得る結果になるものと推量される。問題は、その后における被控訴人側の本件建物明渡によつて生する生活の困窮である。被控訴人が本件建物を明渡して他に住居を求めるとなれば、おそらく、一月八千円程度の負担を必要とするだろうから、被控訴人一家が現状のまま推移する限り、おそくとも三年先には完全な破綻が一家を待ち構えていることになる。憲法は、二五条で、国民の生存権を保障している。この憲法上の権利は、もとより国家に対するそれであつて、私人相互の間に主張しうべき性質のものではないが、私人相互の間においても他人の最低限度の生活を破壊するような行為は公序良俗ないしは公共の福祉に反するものとしてこれを許すべきものではないだろう。こうした見地からすると、控訴人の提供する程度の条件では正当事由の要件がこれによつて補完されたものとみることはできないのであるまいかという疑問が起きる。もし控訴人の側に首肯するに足る自己使用の必要性がなかつたり、その資力において十分なものがあるような場合には正さに然りであるが、本件の場合にはこれと事情を異にする。控訴人の提供している条件は控訴人の資力からすればぎりぎり一杯のものであつて、控訴人は賃貸人として正さになすべきことをなしつくした観がある。しかも、前示のように、控訴人にも相当程度に自己使用の必要性が認められる以上、控訴人の明渡の請求は信義則にかなつたものであつて、これを非議することはできないものと考える。いうまでもなく、現行法制のもとにおいては、賃貸人は賃貸人なるが故に借家人の将来の生活までも保障しなければならない立場にある者ではない。生活困窮者に対しては、社会連帯の思想にもとづいて国家と社会が窮通の方策を講ずべきものであつて、これをひとり賃貸人の責任とするか如きことは筋道に合わないことである。控訴人の提供する条件をもつてすれば、長い期間とはいえないが、当分の間、被控訴人は家屋の明渡による不利益を蒙らないで済む立場にあるのであつて、控訴人はこれによつて賃貸人としてのいわば社会的責任を果たしたものというべきだろう。当裁判所は、これらの諸点を考慮して、控訴人の提供したいわゆる補強条件は、自己使用の必要を中心としてみた正当事由の欠缺を補完するに足るものであつて、これによつて控訴人のなす解約の申入は正当事由を具備するに至つたものと判断する。

ところで、冒頭認定の解約申入当時(昭和三二年一〇月一八日)においては、上叙のとおり正当事由がなかつたのであるから、その後六ケ月経過しても、本件建物賃貸借は解約の効果を生ずるに由ないものであつたのである。しかして、その正当事由を肯定することができるようになつたのは、控訴人が本訴において前記補強条件の負担を申立てたときであつて、そのうち、明渡猶予期間を昭和三四年一一月一日までとする旨と、移転料二〇万円を提供する旨とを表明したのは、当審における第二回口頭弁論期日である昭和三三年一一月一五日であり、明渡を得るならば未払家賃および損害金の支払を免除すべき旨を表明したのは、当審第三回口頭弁論期日である同年一二月一三日であることは、当裁判所に明らかである。

すなわち、控訴人は昭和三三年一二月一三日当審第三回口頭弁論期日において被控訴人に対し、その正当事由を補完してあらためてその事由の下に解約を申入れたものとみるのが相当である。されば、六ケ月の解約申入期間は、そのときから進行し、昭和三四年六月一三日の満了とともに解約の効果を生ずべきものであつて、その時期が前記明渡猶予期間(昭和三四年一一月一日)内であることは、その解約の効果の発生を妨げるものではない。

されば、被控訴人は、控訴人がその申立てたとおりの負担をすることを条件として、本件建物を控訴人に明け渡す義務がある。よつて、控訴人の本訴請求はこれを認容すべく、これと異なる原判決は相当ならざるに至つたものといわなければならない。

よつて、民事訴訟法第三八六条、第九六条、第八九条、第九〇条を適用し、仮執行の宣言は本件に適切でないので、これを附さないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判官 石井良三 立岡安正 渡辺均)

目録

東京都墨田区隅田町四丁目二六番地

一 木造瓦亜鉛メツキ鋼板交葺二階建店舗一棟

建坪 三七坪五合

二階坪 二〇坪

のうち、向つて右より第五号

家屋番号 同町二六番二二

一 木造瓦亜鉛メツキ鋼板交葺二階建店舗

建坪 七坪五合

二階坪 四坪

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